文章とは、離脱した髪の毛のことかもしれない

『善き門外漢』を作っていて、文章を書いたり、作品を縫ったり、写真を撮ったり、絵を描いたり、デザイン・レイアウトをしたり、営業したり、宣伝したり、人に頼むのが苦手ゆえ、ひとりで何でもやってしまうので、いまいち何者なのかよくわからないとかおもわれがちのようだ。じっさい何者でもないので、ただの善き門外漢であるので、それでべつに不自由しないつもりだったのだが、わかりにくくてもそのわかりにくさが実体だったのだが、号数を重ねていくうちに自他ともに見えてきたことがあって、これではちょっと困るなあという実感も募ってきた。おもしろいことはなんでもやりたい、いいものを作るために多方面でがんばるし、当初のコンセプト通りジャンルの壁は作らず織りなしたい。けれどそれらの柱としてあるのは書くことで、書くため、そして読んでもらうために奮闘するのだなとおもう。どうも言葉で、繋がりたい。

 

色んなところで言ったり書いたりしていることだが、言葉というのはとにかく不便なものだ。ひとつひとつが意味をもつゆえ、意味に縛られその枠をなかなか出られない。共通認識という過信がアダとなり、足枷となる。言葉が通じたところで、常にズレてゆく宿命。あなたのおもう「イケメン」とわたしのおもう「イケメン」はまるで違うものかもしれないし。そこを圧倒てきに視覚に訴え補い得るのは写真や映像なのであるし。写真や映像をバーンと見せられたり、音楽をジャーンと鳴らされたり、ご馳走が並んでいるところでフワーッと鼻腔を刺激させられたりという臨場には、そもそも言葉の挟み込まれる余地はない。言葉にしたとたん違うものになってしまう。でもそのズレ、意図せず生まれる、また時に意図しながら生みだす偽りや脚色がいいんじゃないかとおもうのだ。絶えず言葉に引っ張られ、実体とかけ離れてゆく皮肉のあじ。ひとつの事象にたいし幾とおりにもパラレルに別世界が出来上がる、それが文章というもののおもしろさだ。そうでなければ書き手など誰でもいい。と言いながらも、かけ離れてゆく実体のなかには書き手自身も含まれているからまたユカイだ。「文章」=「わたしの文章」ではあるが、「文章」=「わたし」ではない。

 

先日ある方のお話のなかで、近代日本の女学生の表象が主題だったのだが、髪についてのこんな文章が紹介された。

 

肉体の一部でありつつも容易に肉体から離脱し、その人に属すると見えながらアッサリと塵芥として処理されてしまう。肉体の一部であるという意味の「内部性」と、廃棄される塵芥としての「外部性」。境界性・所属不明性を特色としつつも、所有者の意志を超えた増殖力によって、逆に所有者の生命力の証ともなり得る。

(本田和子『女学生の系譜 彩色される明治』青土社)

 

この一説で語られる髪の毛の、不気味なポジティブさは一体なんなのだというおもいが、ぺたりと胃壁に貼りついたまま過ごし、これは「書くこと」に置き換えられるじゃないかとヒザを打ったのが二日後。内部にあるうちは「わたし」かもしれない。それを外へと書きつけたときに「わたし」から離れてゆく。離れていったものが文章であり文体なのだ。「わたし」と「わたしでないもの」「かつてわたしのなかにあったもの」の境界をせめぎあう、この曖昧さがなんだか強かで、ひどく愛おしい。

孫悟空のフッと吹いた毛、鬼太郎の毛針などは、その一本一本がそれぞれに仕事をして、生命力に満ち満ちている。毛とはそういう気配をたたえているものだ。たとえ塵芥として処理される運命であろうが、離脱した髪の毛だってひと暴れ、生命力の証としますよ、書きますよ、という宣言とともに、『善き門外漢』を読んでくださる人が少しでも増えますようにと、HPを開設した次第です。