薄暗いばかりの夏のはなし

仕事中、大人のぬりえでパックリ切った指先に、日焼け止めがシミる。手がだめならばせめて足だけでもと、ギラギラに爪を塗りこめる。新しい蚊の獲り方を習得して、ヨガをしながら一撃で仕留める。ただそのていどの夏が歩きだす。

どんなに暑くても涼しい顔で本を読んでいそうですね、と最近知り合った方に言われたのだが、とんでもない話で、人の3倍は暑がりで、ただ暑いというひとつの要因だけでじゅうぶんに夏が大嫌いだ。『ベニスに死す』のページの中はこんな湿度なんだろうなという今日このごろ、炎天下の街中ではノコノコと外出してきてしまったじぶんが憎く、じぶん以外の朗らかな人々に「なんで平気な顔してるんだ、なんでだ」と問いかけながら(心のなかで)、目を剥き、険しい顔を振りまく。夏は夏だからといってここぞとばかりにやれ海だ、やれ花火だと無闇に屋外に出ず、みんな一斉に活動休止すればいいとおもうし、一日中冷房の中にいたって、あーなんか冷えちゃった、なんていう女子みたいなことは決して言わない(たまに言ってしまう)。大嫌いな夏の勢力が弱まり、ある日とつぜん明らかに性質のちがう風が吹き、季節が塗り替えられたときほど心震えることはなく、ああ生き返る、とでたらめなステップを踏んで礼讃する、とはいえ暑いから嫌いという単純さだけでは語れないものが夏にはある。

夏が来るたび、スチャダラパーの『サマージャム’95』を発売当初から聴いているわたしは、その歌詞通り、人並みに夏に浮かれてみたいとどこかでおもい憧れ、ときに試みながらも、払拭できない乗りの悪さを、そう簡単に乗ったりするもんかという天の邪鬼さに転換し、21年間順調に育んでしまったのかもしれない。クーラーの効いた薄暗い室内、特にやることもなく、というかやる気が起きず、暑い外、浮かれた人混みに出て行く気などは毛頭なく、外ではしゃぐ人たちの存在を考えてみては、あまりに縁遠いためか意外とすぐに忘れ、やみくもに夕立を待ち、横たわり、床と体温を共有するばかりの寄る辺のなさ。

さらに遡って小2、ワイドショーで流れていたあるニュースに休み中捕われて、見るものすべてに曇天のフィルターがかかっていた夏。とある山中上空から、倒木でつくった「SOS」の不穏でしかない映像、発見されたテープレコーダーから助けを求める荒く逼迫した男性の声。それらまぎれもないノンフィクションが、目に耳にこびりついて離れず、映像も音声も小さなわたしのなかで何度も何度も再生された。子どもだったから詳細はよくわからなかったが、謎が多い事件(事故)という印象があって、それがまたミステリーなのだが、声の主は熊に襲われたという話があった。そう聞くとまたさらなる恐ろしいイメージが浮かんできてしまい、新たな再生が繰り返される。夏休み、時間はいくらでもあるので、寝ても覚めても鬱々として過ごし、明日にでも2学期が始まればいいと、子供らしくも子供らしからぬことを切に願っていたが、親にも兄にも友人にもいっさい口にできなかった。

口にするのも恐ろしかったというのもあったが、それよりも、口にしたとたんこの純粋な戦慄がなあなあの励ましを受けて、最悪のばあい一笑に付されて失墜する予感がしたのだとおもう。真剣に感じ、恐れていたという点では、それだけ誇りを持っていた。わかりあえないことがわかっていた、7歳の夏だった。