白昼夢・周縁・Mさんのカーディガン

昼間寝巻きのまま飼い猫の傍らで惚けていると、隣からカンカンカンと鉄骨階段を上る音が聞こえた、というのは紛れもない幻聴で、なにか別の音をそのように取り違えただけなのだが、その音によって過去この家を取り巻いていた景色が蘇ってきたのは、もう長らく忘れ去っていただけに、急襲といってもよかった。隣に鉄骨階段の2階建てのボロアパートがあったのは、25年くらい前までのことだった。我が家を塀で囲ったのはボロアパートが取り壊される少し前のことだったから、それまでずっと鉄骨階段はうちの庭と境目のないところにあって、子供だったので気にしなかったけれど、双方の生活は割合筒抜けの状況にあったはずだ。アパートの住人は素行がいいとは言い難かったようで、両親、とりわけ家にいることが多く生来神経質な母が常々レースカーテンのこちら側から警戒していた姿というのが記憶があるが、じっさいにどんな人たちが住んでいたのか、わたしはほとんど覚えていない、ひと組みの男女を除いては。

男女は2階に住んでいた。男は大柄の土木作業員で、女は華奢で年上のようだった。正式な夫婦だったかというと、違った気がする。2人とも何かしらの精神てきな疾患というのか、そういうものがあったようで、挨拶くらいはしたかもしれないが、意思疎通をとるのは難しかったように記憶している。母が働きに出るようになって、朝、車で仕事に出発したとき、女が自転車で追いかけてきて車のまえに立ちはだかったことがあった。立ちはだかって、特に何を言うでもなかったらしいのだが、怖がるわたしに母は、「働くことが羨ましかったのかもしれないね」と言った。女がそう言ったわけではないので、本当にそうだったのかはわからないが、母はその出来事に際し恐怖を感じたのではないのだ、女はけっして悪い人というのでもないのだ、ということだけは子ども心にもわかった。女の留守に雨が降ったとき、母が洗濯物をどこへどうやったか知らないがともかくも避難させてやったので、お礼と言って菓子だかなにかを持ってきたりしたこともあった。アパートが取り壊されて、2人はどこへ行っただろう。跡地にはすぐに家が2軒建ち、鉄骨階段の音に取って代わって、裏庭の夏の終わりのゴーヤーの様子を窺いにやって来る隣家のおじさんの砂利を踏みしめる音が届くようになった。

向かいには、Tさんのクリーニング店があった。お店の引き戸を開けるとセンサーが働いてピポピポピポピポと来客を知らせる音がこだまして自宅となっている裏からTさんが顔を出す、その一連の時間の流れやお店の匂いが、今もありありとおもい出される。Tさんはわたしの両親よりも20とか、それ以上年上だったので、わたしからしたら「おばあちゃん」のような存在になり得たかもしれないのだが、Tさんは「おばあちゃん」であったことは一度もなくて、確固としてTさんでしかなかった。Tさんが独身であって(早くから未亡人だった、と聞いた気がする)、子どもをそこまで子ども扱いしなかったからかもしれない。鍵っ子になったわたしは「お腹が痛い」とか言ってランドセルを背負ったままTさんの家に上がりこんで、お腹の痛いのが治るとケロッとしてえんぴつのかたちのアイスキャンディーをもらって食べたりして、甘やかさずも優しく、ひとりの人間として接してくれたTさんを信用していたのだとおもう。お店の看板には「津軽こぎんの店」と書いてあって、クリーニング店であることよりも、そちらのほうが大きく目立っていて、なんでだろう、とおもっていた。Tさんは津軽の出身だったから、津軽こぎん刺しの小物などを作ってもともとはそこで売っていたのだとおもう。肝心の津軽こぎんのものは何ひとつ覚えていないのだが、とにかく裁縫が上手で、上手というかじっさい山手のお金持ちの家へ呼ばれ採寸してオーダーメイドで服を作ったりしたプロだったらしいので、幼稚園の制服のブラウスの襟やスモックのポケットに素晴らしい刺繍を施してもらったし、そこらへんで到底見かけることのない舶来の生地を持っていて、アイレットレースの絢爛なブルーのワンピースだったり、麻混とおもわれるざっくりとしてシックなひまわり柄の三段フリルのスカートだったり、けっして子ども騙しではない子ども服をいくつも縫ってくれた。Tさんのことを苗字で「Tさん」としか呼んだことはないが、下の「Mさん」という名前がとても変わっていて素敵なのだ。自分が大人になって、しみじみそうおもう。ひらがな3文字で、同じ名前の人に出会ったことはいまだかつてない。その名前をつけたであろう、実のご両親とは早々に別れて養女に出たと聞いている。

Mさんのお店、自宅がどういういきさつでなくなったのか、わたしは知らない。ボロアパートが消えた少しあとのことだったとおもう。Mさんがどこへ引っ越していったのか、母ははじめのころは把握していたようだが疎遠になってわからなくなってしまった。健在であればきっと90歳を過ぎている、そうおもうと、自分も家族もこの家も、飽きもせず同じ場所に根をおろしているにも関わらず、ずいぶん遠くへ来た、という気がする。

ここ数年、冬になるとMさん手編みのカーディガンを着ている。もともとは母がもらったものだが、今はわたしのものになっている。アイボリーの太い毛で、縄の模様がぜんぶに入って、赤茶色の木のボタンがついている。本物は25年とか30年とか時が経ってもこんなにも色褪せることがない、というか、25年30年という時が経っているということを、今こうして書くまでまったく意識していなかった。

小林秀雄の講演CDを聞いて「陸沈」という言葉がここのところ気になっていたが、なるほどMさんは穏やかに市井にあって鋭く孤高だった。