後藤明生を読んでいる〈前篇〉

夜な夜な、後藤明生を読んでいる。国書刊行会から後藤明生コレクションのシリーズが刊行されはじめてちょうど1年ほど、それまで講談社文芸文庫で『挟み撃ち』、『首塚の上のアドバルーン』を読んだり、図書館、電子書籍、古書店で出あえたものをランダムに読んでいたが、このシリーズでは前期、中期、後期、と時代を追ってジックリと後藤明生の世界を味わうことができるのだ。「夜な夜な」と「ジックリ」というのがポイントであって、わたしはこれを寝しなに布団のなかで読んでいる。なぜかといったら持ち歩くにはすこし重いというのと、なによりバッグのなかでページが折れたりするのがいやだからであって、コーヒーを撥ねかしたり、ましてや風呂場でフヤけるなんて言語道断だ。ふだんそれほど本をきれいに保とうという潔癖さなど持たないわたしが、後藤明生コレクションにかんしては徹底していて、実物を見ればわかるとおもうが、そうさせるとくべつ感があり、「本」というか「書物」と呼びたい佇まいがある。タダジュンによる装画もザワザワと不穏で、なんとなく「夜」が似合うから、枕元の薄明かりで読むのがいい。足元には飼い猫、枕元には後藤明生、1日の終わりはコレがいい。『善き門外漢』の制作期や、イベント準備期などののっぴきならない時期をのぞいて、足掛け1年、亀の歩みで読んでいる。亀の歩み、といったのは全5冊のうち、わたしが読んだのは1冊め「前期Ⅰ」と、3冊め「中期」をいま読み終えたところ、というていたらく、2冊め「前期Ⅱ」がとんでいる。「時代を追ってジックリと」といっておきながらもうとんでいる。1冊めを読み終えないうちに3冊めが出てしまったので、気もはやり、個人てきに読んだことのある作品が多かった2冊めをとばして3冊めを買ってしまった。そして3冊めを読みはじめるかはじめないかくらいのときに既に出ていた4冊め「後期」を準備万端買っておいて、それが手つかずのうちに5冊め「評論・エッセイ」がいままさに発売となって嬉々としてすぐに買った。こんな状況を後藤明生好きの先達に話したところ、「いいんだよ、後藤明生はそんな急いで読むものじゃないんだから!」というような言葉がすぐに返ってきたので、そうだ、そんなに急いでどうするのだ、味わう速度というものが書き手と読み手それぞれの関係にあるだろう、誰も叱りはしないじゃないか、とおもい直す。この件に限ったことではなく、最近常に誰かしらに叱られているような気がしていることに気づく。なにも最近にはじまったことではない、生まれてこのかたずっとかもしれない。このことはこれからよく考えていかねばならないかもしれない。

脱線はともあれ。小説家・後藤明生(1932-1999)、知らない方のためにいっておくと、読み方はゴトウメイセイ。文学史上のくくりでいうと、古井由吉、黒井千次、小川国夫らとともに「内向の世代」にその名が上がる。旧朝鮮咸鏡南道永興郡永興邑(現在の朝鮮民主主義人民共和国)で生まれるが、13歳で敗戦を迎え、朝鮮の独立とともにソ連軍が進駐、翌年38度線を越え、福岡県に引き揚げた。この朝鮮での少年時代や、引き揚げ後、筑前訛りを上手く喋れなかったことなどはたびたび小説のなかに登場する。早稲田の露文を出て、博報堂、平凡出版(現マガジンハウス)で働き、’68年に退社して専業の小説家になる。この辺りのこともたびたび小説のなかに垣間みられる。一男一女をもうけての〈人間の家族が、他人として上下に積み重ねられて生活する〉(『書かれない報告』’70年)、草加、習志野、幕張の団地での暮らし、夏に毎年訪れる信濃追分の山荘での暮らし等々……氏の人生の足跡はすべて小説になっている、といってもたぶんいい。しかしそれがいわゆる私小説というくくりにはまったく収まらないのは明白であって、しかしなぜ明白なのかと問われるとそんなにカンタンには説明のつかないものがあり、その辺りのことは買ったばかりの『後藤明生コレクション5 評論・エッセイ』を読んでみてからだ、とおもうし、そもそもこの場ですべてを語ろうなんて大胆不敵なことはおもっていないので、気軽に進めていこうとおもう。まずわたしがとくに楽しんでいるのはその飄々とした文体で、引き揚げ時に父親と祖母を亡くしていても、酒の飲み過ぎがたたって度々吐血していても、フシギと悲愴さは影をひそめている。どこかトボけたように淡々と、感傷を遠く追いやったような文のなか、とつぜんたち現れる「とつぜん」、えんえん続く引用と脱線、通底するユーモアにフッと笑ってしまいながらしかし、ドジョウの掴みきれずすり抜けてゆく「いったいなんなのだ」のヌメリが掌に残るようでもあり、文章という手法だからこそなし得る芸を見事なし得る「文」の「芸」、わたしはこういった「文芸」をあいするのだ、と毎度掌をジッと見つめながら確認させられるのだが、ドジョウだとかヌメリだとかいうとちょっと感触が違うので、もう少し乾いたもので例えられたらよかったのだがとおもうので、そのうちおもいついたら書いてみたいがおもいつかないかもしれない。それはともかく、もともと遅読であるじぶんをさらに遅読に追いつめるものは、このジッと掌を見つめる時間なのだろうとおもう。非常に読みやすい文章だから、サラリと読めてしまうようでいて、ドッコイそれでは済ませられないものがあるのが後藤明生なのだとおもう。

後篇へ続く》