真夏の身辺整理

生活に追われて読書もなにもままならない。生活とはいったい何か。生きる活動? 優先順位はどうつけるのだ。悩み抜いて優位と見なしたものがしかし、果てなく終わらなかったとしたらどうだ。ちょっと抜け出して映画を見にいってもいいのか。肉体労働のあと、一日の終わり、待っていたのがまた別の肉体労働だったとしたらどうだ。

などと仰々しく書きたててみたが、ただ身辺整理がおもいのほか長期戦になって大いに困ったというはなし。

とにかく夏がウトマしいじぶんは、夏をあいする多くの人々とはちがった意味あいで夏に意識てきであるといえるのだが、今年はイベントのことで忙しくしていたら、気候の変遷をかんじる間もなく気づいたときにはもう夏だった。イベントが終わってふと息をついて見渡すと、机の上には紙やら文具やら細かなものが散乱、部屋の容量にたいして物が多すぎるという息苦しさ、気に入った本が本棚に収まらずただ賽の河原の小石のごとく積み重ねられているわびしさ、やっと視認されるところとなったこの猛省で、奇しくも片付けるに最も不向きな季節に最優先事項として始まらざるをえなかった身辺整理。

大掃除ではなく身辺整理、一応そういう気分で取り組んできたので。断捨離とかミニマルライフとかはどうも過剰なようですきじゃないし、そんな徹底したことはしやしない。それにしても現状はあまりにヒドいし、環境を整えて次に取りかかりたいと切に願った。次へ、身軽に、どこに在ってもよいように。『善き門外漢』vol.2で、『どこに在ろう』という短い文章を書いて1年半ほど経ち、その間当たりまえのことだが変わったことと変わらないことがあって、いずれも惰性によって流れるままに変わってしまったことと惰性に居座ったために変わらなかったこと、のようにおもえてならない今なのだ。

この「どこに在ってもよいように」が意味するところは直接てきでもあり比喩てきでもある。直接てきなことをいえば、母にはいつも早く出ていけといわれているのだし、父の病気と死がなかったら帰ってくるつもりなど毛頭なかったじぶんとしてもできればまた出ていきたいとおもっていて、物件を見るのは日常の趣味のようになってさえいるのだ。が、実情は出ていきたいのと出ていきがたいのと半々というか、いまや未亡人となり見た目は若いが年老いた母と、こちらもまた高齢になった飼い猫ポコのことがなんとも気がかりで、生きるものはすべて必ずいつか死ぬのだという至極当たりまえのことを、じぶんとはかんけいのない遠いはなしとしてではなく、至近なこととしてここ4、5年で立て続けに目の当たりにしてきたゆえの、「どんな不幸だって起こりうる」という実感のこもった気がかりがある。しかしそのリクツからすると他ならぬこのじぶんもまたいつだって充分に死にうるという帰結に至るので、わたしじしんがまず心して生きていかねばならず、「わたしのことをダシにするな」という意味あいを込めた種々の母の文句もシミジミ沁みてくる。他方比喩てきなことでいったら、じつは仰々しく書いた冒頭ぶぶんのようなことで、あれはなかなか意外と大事なことを、じぶんにとっての死活問題みたいなことをコンパクトにいっていて、生活をどうするのだ、じぶんの生きる活動はどのようなものだ、優先事項はどうだ、時間配分はどうだ、そういったことの選択、定期てきな見直しを、身の回りを片付けながら考える時間でもあった。惰性でやっていることのなかから特にやらなくていいこと、やるべきでないこと、つまり「もういいかげんやめよう」とおもうことを、おもうだけでなくてじっさいにやめる固い決意をする時節のようだった。

しかし1ヶ月、なぜか1ヶ月もかかった。出鼻からすでに時間配分が間違っていたのではなかろうか。そもそも配分などしておらず、だらだらやっていたのかもしれないけれど、途中4時間にわたる映画を見に行ったのも、プラプラと本屋をハシゴしたりしたのも事実だけれど、それでも片付け終わる日をひたすら夢みてスキマの時間でも汗ミドロでやった。床が抜けるんじゃないかとの危惧が高まっている本の山から、ほんの一部だけど80冊ほど、えいやーと手放した。さらに棚を追加して、これで本がなんとか収まった(ただし今後1冊でも増えればもう溢れてしまう)。布団を入れるのでなければどうにも使いづらい押し入れ、高さがあって市販の棚ではどうにもサイズが合わなかった押し入れも、お隣のおじさんの多大なる協力のもと、システマチックなキャスターつきの棚を4つ作った。設計図をかいたのはわたしだけど、作ったのはほとんど、お父さんとお兄さんが大工さんだったというこのお隣のおじさんだったといってもいい。材料が足りなくなると、おじさんは車を出してくれて2人でホームセンターへも行った。合間に庭で食べる冷たいカスピ海ヨーグルトはやけに美味しく、静かな感動を覚えた。

蚊取り線香を焚きながらガレージで作業していると、3軒向こうのおじさんがやってきて木材をいい加減に押さえながらひと通りお喋りして帰っていったり、近所に住む叔父が通りかかって見物していったりした。「何やってんだ?」「押し入れに入れる棚作ってるのよ」「へえ」「物が多いのよ」「全部おっぽっちまえばいいんだよ」「捨てやしないわよ」「誰に似たんだ、おふくろか?」 なんでも情け容赦なく「おっぽる」叔父と、母との会話である。心外だ。おふくろとは要するにわたしにとっての父方の祖母で、「もったいねえ、もったいねえ」とゴミのようなものから食品まで後生だいじに仕舞い込むひとで、亡くなったあと父たち兄弟は片付けるのに四苦八苦した。祖母には悪いがそれはあまりに心外だ。数年まえに捨てに捨てまくったのでもうさほど捨てるものがないのだ(と主張しつつもはや取捨選択に注ぐエネルギーも底をついていたという可能性も否めないが)。それでナニクソとおもった、ということでも特にないが、無事棚も完成し、収納というパズルゲームも乗りこえ、ギッシリの本棚のちょっとした圧迫感を除けばだいぶ軽やかで広々とした部屋になった。

8月も半ばを過ぎ、というかこれを書いている間にもう下旬にさしかかり、部屋の真横でセミが断末魔の大音声をあげている。始まりに気がつかなかったのと同様、夏の盛りも知らぬ間にもう過ぎたのだろうか。夏のキライなじぶんとしては幸運だったともいうべきか。そしてここからやっと、やっとほんらいの最優先事項をつかまえることができる。