必要な夜

東京から台風が去って、お約束の湿気が土産として置いていかれたが、あの記録てきな灼熱を思えばこんなものは何のことはない。冷房は、かけてもいい、かけなくてもいい、といったところで、テレビをつけると1日延期された隅田の花火が映っていた。東京の東の祭りなど、西にいる自分には随分と遠くのことに思え瞬間は冷淡だったのだが、ハッとして副音声に切り替えると、副音サーことみうらじゅんといとうせいこうの自由すぎる話芸が繰り広げられていて、花火師たちの競い合う作品が打ち上がると、曼荼羅をテーマにした花火には、これは胎蔵界か金剛界かと問うたり、カエルの顔の花火には、無から無へカエル、nothing to nothingだ、とやはり仏教を絡ませてきたり、みうらさんがやたらと犬神家の静馬のマネをやったりとか、フジのディランはどうなってるんだとか、こちらも濃いハイボールに急激に酔っていたのでいっそうの抱腹絶倒だったのだが、主音声が聞きたい、という母の一声(無理もない)によって自室に撤退した。西の立川、昭和記念公園の花火大会は早々に中止が発表されていた。隅田のように順延にすることはできなかったのかしら、なんて言いながら、自分が行くわけではないので本当はどちらでもよかった。大学生の時に行って以来、もう二度と行かないと決めていた。浴衣でめかしこんで、恋人と連れ立って花火を楽しんだところまではよかったのだが、一斉に帰路につく人々の交通渋滞で遅々として公園から出ることが出来ず、そのうちに恋人は「妹がどうしているか心配だ、妹も一緒に帰らせるから」とやはり花火を見に来ていた妹(超ド級の美少女)と連絡を取りはじめ、「はあ? 妹には彼氏がついてるだろうが、このシスコンが!」といったぐあいで険悪になり、やっとの思いで駅にたどり着いたが今度は改札に入場規制がかけられてコンコースに人がすし詰めとなり、見渡す限りぜんぶ人間、前後左右一歩も動けない状況に恐怖を感じ、パニックで過呼吸気味になったにもかかわらず、恋人はまだどこか妹を気にしていたので、最終てきに大げんかになって、やっとのおもいで帰ってきた。十数年まえのこの一件以来、花火大会はおろか、花火大会の日には絶対に立川へ行かないし、立川を経由しなければならない移動すらしない。

自室にひとり、とても静かだ。灯は小さいものだけにして、極力暗いなかで窓を全開にして窓辺に座る。ここでは、ちょっと寒いくらいの涼しい風が感じられる。みうらさん同様、わたしも本当はフジロックに行きたかった、今年こそはとおもっていた。けれど持ち前のフットワークの重さであったり、それどころではないような気持ちがあったりで、やはり行かなかった。ceroもボブ・ディランも聴こえてこない、花火も見えない夜空に星を見つける。火星が大接近しているらしいけれど、赤く見えるらしいけれど、どれが火星なんだろうか。何となくアレかな、アレが赤っぽいかな、まあアレでしょ、と勝手に火星を断定する。そして考え事をする、考え事をする。世のなかは騒がしい、祭りでなくても騒がしいので、完全なる考え事をするのは案外難しいことだ。星をジックリ見上げることもあまり無くて、そうか、星が瞬くとはよくいうけれど、ほんとうにこうして瞬いているのだなあ、と驚きを持って凝視を続け、考え事もまた続ける。考える事に飽きたら、寝転がって本を開く。数年まえに頓挫していた小説、世界てきに名高い作品だが自分にはちょっとよくわからない、読めない、とおもっていた小説を、貪るように、激情めいたおもいさえ伴ってズンズン読み進める。時が流れたこと、流れたが、自分がただ食べて寝て無駄に息をしていた訳ではなかったのだということを、名作に教えられる。