非公開の悦び

先月、人知れずピアスの穴を開けた。ほんとうに、誰も気づかない。

「今ピアス開けてきたんだ、ほら!」
「あれ?もともと開いてませんでしたっけ?」

「わたし、ついにピアス開けたんですよ!」
「えー、開いてなかったっけ?」

他人の耳なんてそんなものだ。確かに穴はあった、高校生から大学生にかけて、開けては塞ぎで複数穴の跡はあった、けれどももう塞いでしまえと放っておいたのでそこにはもう10年ほどピアス自体はなかった。なぜ折角開けたものを、あのガシャンという一瞬、次の瞬間からやって来るカーッと熱くなるしばしの痛み、そこから1ヶ月ほどファーストピアスを外せずに欠かさず消毒をしながら経過を見守らなければならぬ忍耐、それらを乗り越えてやっと、やっと形成された穴を、簡単に放棄し塞いでしまったり出来るものか。10年の時を経て、また開けたくて開けたくてウズウズしはじめたわたしには、過去の心境は理解出来ないものだったが、開けるのも軽い気持ちならば塞ぐのもまた軽い気持ちだったのだろう。今は再度開けるにしてもいったい何処で開けたらいいのか、どの病院が信頼に足るのか、調べに調べああでもないこうでもないとじぶんでもウンザリするほどに慎重なのだった。

ふと、もしや、というおもいが働いて鏡のまえに立ち、右耳の穴の跡にピアスを刺してみるとこれが途中まで入った。左耳の二つの穴にも試してみると、ひとつはまるでダメだったけれど、もうひとつはやはり途中まで入った。これはひょっとするといけるのではないか、左右入りきらないピアスを人差し指でツンツン叩き続けた。ツンツンツンツン、ツンツンツンツン。なんと恐ろしいことをとおもわれるかもしれない、じぶんが読む側だったらいい加減にしてくれとおもうに決まっている。でもツンツンやっている本人はまるで平気なのだ。ツンツンツンツン、ツンツンツンツン、ツンツンツン、ツーン! 貫通した。人知れず穴は生きていた。どうしてもダメだったもうひとつだけは翌日病院へ、国分寺のだんごの輪島のそばの病院へ行って開けた。だんごの輪島は定休日だったのでだんごが買えなかったのは残念だった。

10年ぶりの耳たぶの感覚に、何か閉塞におもいきり風穴でも開けたような爽快な気分でもあり、誰も気づかなくとも人知れず嬉々としている。小粒でもジュエリー、悦びをきらきら、享受している。生活とは、こうした非公開、非公式の物事の集合なのだ。

早朝に起き出して、食事を済ませ、たらふく水を飲み、庭を散歩して、トイレも済ませ、ひと通り満足した飼い猫が、ワーワー喚きながら細く開けたわたしの部屋の戸の隙間にニュルリと毛をこすらせ(このこすれる音が好きだ)二度寝しに入って来る。ベッドに上がってのしのしと人を踏みつけて腹の上に寝る。毛だらけの生温いものを腹に載せ、重みに腰を沈めながら、だらだらと朝寝する休日。

仕事の帰りの電車で、さあと取り出した読みかけの新潮の小口が、漏れたお茶でふくれていた。いやな気持ちになったが諦めて読みはじめると、お茶の香りに誘われたのか、ケシ粒ほどの虫が飛来したので反射てきに手で払うと、払っただけでページの上で潰れてしまった。いよいよいやな気持ちになった。

駅から家へ歩く途中、砂利敷きの駐車場の真ん中あたりにシロクロ子が、クロシロ子と言ったほうがむしろ相応しい容貌の小さな猫だが、はじめて会ったのはたぶん去年の秋口で、生まれたての小さな姿でミャーミャーと寄ってくるのにけっして触らせてはくれなくて、それでも駐車場を通りかかると度々ミャーミャーと現れるので可愛くてたまらなかったのだが、冬はさっぱり姿を見せないで、あの寒過ぎた冬をたった1匹どうしただろう、無事でいるのか不安でいたのだが、春になってまた現われて、夜の駐車場でまんまるくうずくまっているのを見るのがとても嬉しい。

2階から見下ろすと塀の内側によく見える、隣家のクンシランに憧憬を募らせうらやましがっていたら、おじさんが株分けしてくれた。言い訳めいているけれど自分できちんと買おうとおもっていた、おもっていたがクンシランはあまり園芸店にも売っていない。少なくとも近隣にはほとんと売れ残りのようなのしかなかった。たぶん昭和くさくて人気が無いのだとおもうが、その昭和くさいところが大好きだ。昭和くさいと言っても、「君子蘭」なんていう名前がついていても、原産はアフリカのほうだ。昭和くささで言ったらオリヅルランも好きだ。クンシランもオリヅルランも下町を歩けば人家の玄関先、至る所で見ることが出来る。

1月のある日、わたしは熱海に居た。それは旅の初日だった。旅の高揚か、海の高揚か、熱海サンビーチ前のかの有名な貫一お宮像の前に立って、貫一お宮なう、みたいなことをツイートした。した後すぐに、激しい後悔が押し寄せてきた。理由はわかるようでわからず、なんとなくはわかっても整理されず、そのことを何ヶ月も考えていたわけはあるはずがないのだが、どこか心の隅でこだわっていたような気はしていた。じっさいに何ヶ月も経って、あれは要するに、非公開の悦びを自らぶち壊した、というところに理由があったようにおもった。悦びの純度を損なった、損をしたような気になった。

耳たぶの純金や天然石も、シャッターの下りただんごの輪島も、飼い猫も、野良猫も、ページの上で潰れた虫も、昭和くさい植物への偏愛も、すべて生活だが生活のすべてではない。誰でも何でも公開出来る時代だが、生活のすべてを公開している人など居ない。