焼き海苔齧ってコロンボ

連日夢見がヒドい。夢のなかは、おもいもよらない取り返しのつかないこととか、それみたことかといった類のこととか、とにかく「最悪」のオンパレードだ。ここは健康第一だと、早起きするべく早寝しても朝まったく起きることができない。目覚まし時計も呆れ果てたころにやっと目覚めると、背中から腰が痛くて痛くてどうしようもない。マットレスが悪いのか、内蔵が悪いのか、一緒に寝ている飼い猫のポジション取りが悪いのか、そのぜんぶなのか、沼のような目覚めが続いている。

vol.3の納品に奔走していた疲労、次に予定されていることの準備、頼まれていたこと、日常の仕事、精神てきな打撃等々でいよいよにっちもさっちもいかなくなって、そういうとき特有のわけのわからぬ気持ちの高まりで、見たり・読んだりもままならないのだが、ままならないなりに見たり・読んだりに没入する努力をする。

先日、「どうやらわたしは殺人事件がすきだ」という話になった。というとだいぶ語弊があるし、あぶない誤解を招きそうなのだが、殺人そのものが好きなわけではなくて、なぜそんなことをするに至ったのか、解明されないミステリー、水面下でつながり網の目状になってゆくおもいもよらない個々の事情、じつは大きく関わってくる時代背景とかに興味があるわけだ。こんなことは当然わたしに限ったことではなく、興味のないふうでいてだいたいみんな興味があって普遍てきな人気があって、だからこそサスペンス、ミステリーというジャンルは不滅なのだ。そうしてその場でさんざん過去の迷宮入り事件をいくつも挙げて盛り上がったのち、「じゃあこれ見なよ、殺人事件だよ」といって刑事コロンボのDVDが三枚、わたしに手渡された。

翌日、とてもウンザリする出来事があって、サンサンと負のオーラを放ち、遠慮もままならずそこらじゅうに降り注いでいると、「食べなよ」といって焼き海苔をポンとくれるひとがあった。

また翌日、もう今日という今日は、という気持ちで、確信犯てきにダラダラと起きてきて、焼き海苔を齧りながらコロンボを見ることにした。焼き海苔は有明海苔に塩がまぶさっていて、容器の上下に乾燥剤が仕込まれているのでそれはもうパリッパリだ。このほどよい塩気のある乾いた食べ物は、ねちっこいコロンボが小気味よく犯人を追いつめてゆくのとパリパリサクサクと連動してとても相性がいいようにおもった。第一作目の『殺人処方箋』から見たが、わたしの抱いていたイメージよりだいぶコロンボ(ピーター・フォーク)は若かった。六十九作続くうちの第一作目なのだからそれは当然そうなのだが。「コロンボはね、最初に犯人わかるから」と聞いていたとおり、冒頭、精神科医である犯人は愛人との未来に妻が邪魔になって殺す。そこからコロンボがどう犯人の小さなミスを捉え、ゆさぶりをかけてゆくのかが見物だ。第二作目は借りていなかったので、第三作目でシリーズ化の第一作目である『構想の死角』を続けて見た。こちらはまだ無名だったというスティーヴン・スピルバーグが監督している。相変わらず犯人は、欲とか自己都合とかで傲慢きわまりなく冒頭で殺人を犯し、ウンザリしているわたしをいっそうウンザリさせてしかし、シリーズ化の追い風に乗ってか、コロンボもよりいっそうコロンボらしくねちねちじりじりと迫る。いけいけコロンボと言わんばかりに、わたしも景気よくパリパリ食べて口角を塩気でピリリとさせる。

焼き海苔とコロンボで、さあ明日からまた踏ん張ってゆこうという気になったその夜、これまた唖然とするほどのウンザリがわたしを襲った。寝耳に水、これはもう奇襲といってもいい。殺人しなければいいってもんじゃない。理解しがたい他人の欲とか自己都合とかなんやかやを呪った。

翌朝、焼き海苔をトーストにのせたのを食べて仕事へ出かけた。「今日はため息を三十回はついてる」と同僚から指摘を受けて帰ってきて、第四作目『指輪の爪あと』を見ることにした。だいぶ減ってしまってはいたけれど、かろうじて海苔も残っていた。見終わったら、時間はかかるかもしれないけれど、ウンザリにも真摯に向き合おうとおもった。昇華させてやらないと、きっと一生ねちねちついてくるのだろうという気がしたのだ。