旅の総括(叙情しかない)

名古屋、岡崎、豊橋で、3年に一度の芸術祭、あいちトリエンナーレをめぐり、大阪と京都へも足をのばす、計4泊5日の旅をしてきた。

旅に出るまえのわたしは、思考、選択、行動のパターン化が深刻だった。じぶんがこびりつきすぎて、狭苦しい枠から出られなくて、すべての流れが淀んでしまいつつあった。何を見ても楽しくないし、まあこんなものだろう、と無感動に成り下がり、機械てきに日々過ごしていた(再三書いてきたように夏という季節の影響もある)。そんなさなかの7月下旬、若い友人から「名古屋に行きませんか」とごく軽やかな誘いがあって、フットワークの重すぎるわたしが旅になど出られるだろうかと、一旦戸惑ったのだが、だんだん面白くなる予感しかしなくなって、数日後には行くことに決めていた。出発の1ヶ月まえのことだ。キッカケを与えられることはありがたい。そこからは毎日旅のことばかり考えて過ごした。

ひとりで行ってひとりで帰ってきたのでひとり旅というのかもしれないが、行く先々で友人や、友人の友人らはじめて会うひとたちと行動をともにし、ずっと会いたかった方々に会いにいったり、たまたま同じ場所に居合わせたひとと交わしたお喋りがやけに楽しかったり、一連の他者との交歓がこの旅をかつてない善きものにした。

他者というのはたとえば、ジンジャーハイボールにフレンチトーストという奇怪な食べ合わせに嬉々としたり、鉄壁のポーカーフェイスの裏でじつは、旅から帰ったら家が火事に遭ったりしてはいないだろうかと案じているような存在だ。じぶんには計り知れない選択や思考をナチュラルに持ちあわせている、そんなことは当たり前なので言うまでもないことなのだろうが、放っておけばいくらでも単独行動に傾いていき、他者と向かい合わないで済む道ばかり選びがちなわたしは、愛すべき他者たちとの時間のなかで、絡まった洗濯物がほどけ泳ぎ出すような大らかなウネり、ユカイさをじぶんの内にかんじたのだ。

考えるな、感じろ、とブルース・リーは言うらしい。わかっているけどとても難しい、それを体現することは長らくあこがれだ。どちらかといったらアタマでっかちな人間だから無感動にも陥る、が、その逆もあり得て、とつぜんの他者の見せてくれる景色をオドロキをもって、より新鮮に受け止めることだってできるのだ。旅先の朝、希望をもって目覚めたとき、この新鮮さを失いたくないなと強くおもった。東京に戻って日々忙殺されて、毎日同じ道を往復するのだとしても、それをどう感じるかはぜんぶじぶん次第、自己責任だから、もう目が覚めてもできるだけ絶望しない。