関戸橋下

2018年も1ヶ月と半分が過ぎた、などと書けば、時の過ぎるのはあっという間ですね、というお決まりの目的地へはなしが流れてゆくのかと落胆まじりに予感されるかもしれないが、個人てきにこの1ヶ月半というのは旨味のつまったトマトのようにハツラツと過ごしており、早いといえば早いがさいわいただ単純にあっという間というものでもない。しかしこれから春を迎え、気づけば夏になり、新年の初心とか新鮮味というものがだんだんと薄れゆく危険と道連れになってゆくのが世の常であり、例年になく特徴てきだった元日のことをここで書き留めておこうとおもう。

元日、ふとじぶんの生まれた土地へ行ってみた。わたしは東京の多摩市で生まれ、0歳9ヶ月まで住んだ。0歳9ヶ月のときにいま住む家が建って引越してきた。当然なんの記憶もない。生まれ故郷という感慨もない。3歳上の兄ですら何も覚えてはいないのだ。両親は結婚して5年ほどそこに住んだことになる。新築だったが湿気のヒドい増田ハイツの1階の角部屋に住んでいて、すぐ横は神社だったというのは幼い頃よりはなしには聞いていた。そしてその増田ハイツはもうないのだと、亡くなった父がいつだったか言っていたらしい。父はどうして知っていたのか、知らない。おおかた仕事の外回りなどで近くを通りかかった、といったところだろうとおもう。とにかくわたしはもちろんのこと、母ももう引越してから35年ほどその土地には行っていないというから、元日といういい機会だからその隣の神社に初詣に行こうと言いくるめて、ペーパードライバー(2度め)のわたしは母に片道1時間ほどの道のりを運転させることに成功した。元日の甲州街道はガラガラで、しんじがたいほどの快適なドライブだった。

グーグルマップの案内により、しかるべき交差点で甲州街道を折れ、関戸橋を渡る。ここで府中から多摩に入る。かの関戸橋というのはこれか、なかなか立派な橋じゃないかとわたしの目は輝く。というのも、よく父がわたしを関戸橋の下で拾った、可哀想だったから拾ったといっていたのだ。幼いわたしもユカイな冗談だというのは承知していて、それを聞くのがすきだった。多摩の池田産婦人科で生まれたというのがほんとうのところだとしても、その病院の小花柄の壁紙(だったとおもう)を背景に若い父が生まれたてのわたしを抱く写真が残っているとしても、何より黄ばみを通り越して古本のように茶色くなった母子手帳が母の鏡台の抽き出しに現に入っているとしても、出生地は関戸橋下だという設定もまた、嘘もいい続ければいつかほんとうになる、といったところでいまや真実味を色濃くしている。関戸橋はもはや他人ではない。

例の神社は表通りから脇に入った内部のまた内部のような(?)ところにあって、母ですら一度道を間違えた。ぐるりと戻って辿り着き、神社の裏側の空き地ががらんとしていたので、そこに車を停めていいか聞いてこいといわれ、わたしは車を降りて裏から初詣の賑わいのなかへ逆流して入っていった。そう、おもいのほか賑わっていたのだ。ほんとうに地元のひとしか来ないような小さな地域の神社だ。じっさいみんな周辺のひとたちに決まっている。それでも敷地の外まで参拝の列が出来ていたので「おお」とおもったのだ。平屋の社務所(というか寄り合い所?)まえで、白い羽織を羽織って甘酒を振舞っている年配の男性に「すみません、裏に車を停めてもいいですか?」と声を掛ける。「あ、ああ、はい、どうぞ」と応える男性の顔には「車だって?車で来るひとなんているのか?」という困惑めいたものさえ見てとれる。完全に母娘はよそ者である。よそ者ではあるが、ある意味最古参の部類に入るともいえる。この社務所(寄り合い所)のまさにマウラの、いまは学生用のアパート(?)が建っているところに建っていた増田ハイツの1階に約35年まえまで住んでいた。35年まえを知る住民というのもなかなか少なくなってきているに違いない。とはいえ35年まえしか知らない。それも母のはなしでありわたしは何ひとつとして知らない。9ヶ月間ここで、泣いて、寝て、ただただ赤ん坊としての本分をまっとうしていたばかりなのだ。無事車を停めて裏通りに出て、横にたつ件の学生用アパート(?)を眺める。神社の土地はアパートの1階ぶんくらい高くなっているので、そのせいで1階ぶぶんが埋もれるようになってきっと湿気がひどかったのかもしれない。建物は変われど、ともかくもここに住んでいたのだと確認して、なんの満足かは知らないがひとつ満足した。アパートから神社のおもての鳥居に向かう道にそってコンクリートで固めた水路が通っていた。「そうそうこの川」と母がいう。この川も湿気の原因のひとつかもしれないなどと考える。執拗に湿気にこだわるのは、幼いころのこの環境のせいで兄もわたしもアレルギー持ちなのではないかというウラミツラミがあるのかもしれない。道路にまで伸びる列に並び、この水路を跨ぐ小さな橋の先の鳥居をくぐり、無事参拝した。母は社殿の向きが変わったのではないか、こっちではなくこう向いていた、とか身振り手振りでブツブツ言っていたが、わたしにはわかりようがないし、白い羽織を羽織ったおじさんたちにも特に聞かなかった。社務所(平屋)で、熊手とかお札、お守りが売っていた。正月に限りやっていますよ、というかんじで、売っているのもみな白い羽織で揃えた町内会のひとのように見えた。干支守りを買った。お守り担当のおじさんも「この辺じゃ見ない顔だね」という顔をしていたような気になったのは、いったいどんな種類の被害妄想なのだろう。甘酒のほか、煮物やフライドポテトなどの大皿に盛られた料理が振舞われていたが、やはりよそ者であるので(町内会費を払っていないことを見透かされているような気がしたのだ)手をつけずに車へ乗り込んだ。

帰り道、行きにも見た尖ったカマボコ形の建物のコーヒーショップをもう一度見て母がおもい出した。「あ、あそこジイ(父)が行ってたところだ!」母は行ったことがないらしいが、父が兄を連れてちょくちょく行っていたらしい。いまのわたしよりも若かった父が通ったお店がなお健在だということが奇跡のようにかんじられた。正月休みで開いていなかったが、これはぜったいに一度行ってコーヒーを飲まなければとおもった(インターネットの情報では繁盛店の様相すら呈している)。

車を停めるところがないから嫌だ、と渋る母を押し切って、適当な場所で待たせ、ひとり関戸橋下へ降りた。ランニングやサイクリングのための舗装されたコースが通っていて、気持ちのいい川縁を行く。じっさい元日からランニングやサイクリングを楽しむひとたちが通る。問題の橋の下はというと、清々しく晴れたこの元日でもなお薄暗く、例に漏れず橋台にグラフィティが書き散らしてあったが、じぶんの人生の始まった場所だとおもうと(それも完全なフィクションなのだが)いとおしく誇らしくたくましい力が湧いてきた。とてもすきな橋だ。