梅雨はどこへいった

東京の西、昨日午前中は雨が降っていたけど、午後晴れた。今日も晴れた。週間予報から根こそぎ週末の雨マークが消えた。ごはんと雑貨mokujiでのイベント〈読み食い yomikui〉の初日、オープンの21日の12時には豪雨ともいえるような大雨が降っていた。そこいらに池状の水たまりができて、傘を差しても全身に吹き付けるし、晴れおんなのわたしなのに、これはいったいどういうことだと靴下までグッショリ濡れながらモクジから仕事へ向かった。晴れおんなといっても梅雨にはかなわないだろう、とおもうかもしれないけど、ベトナムはホー・チ・ミン・シティの雨季を吹き飛ばした経験だってある。そう、旅行を予定している期間はだいたい当初は雨予報なんだけど、直近になると雨マークが消える、とか、道中の車窓はずっと雨だったのに到着するとちょうどあがっていた、みたいなことが度々ある。初日の大雨はさておき、ここへきてようやく晴れおんなの力が発揮されつつあるのかな、とかんじはじめている。

この最強晴れおんなだ、という自負は、要するに奢りだ。天気はコントロールなどできない。天気とか、気温とか、湿度とか、ちょっとしたことで気もちは変わる。じぶんではどうすることもできないことに変えられてしまうのは甚だもったいないとアタマではわかっていても、アタマだけではまたどうすることもできなかったりして、体調すら変わることだって往々にしてある。そして、じぶんの周辺にあるのはたいがいじぶんではどうしようもないことばかりである、ということもまた事実だ。

今回のイベントのために作った手製本『読み食い yomikui』ではそれぞれ食材を題名に冠した3編の作品を書き下ろした。『タコの球団』と『ゴーヤー爆ぜた』は短編小説で、『フルーツXに届かない』は随筆だ。それぞれじぶんでも「おお」とおもうくらい、読み味の異なる3編になったのだが、それでもなんとなく「じぶんとじぶんの外の事情」「じぶんと他者」みたいなことが結果として共通のテーマになった、とおもう。『タコの球団』は、女子中学生が2人きりの野球チーム(といってもほとんど「エア球団」なのだが)をつくる話で、「外の事情」とか「他者の脅威」とはぎりぎりまだ無縁であって、成長に伴って生じてくる集団のムードとか「こうであるべき」のような大前提に飲まれてしまう一歩手前の、そのころを忘れてしまった大人にとっては(わたし自身も忘れていた)マボロシのような世界を書いた。『ゴーヤー爆ぜた』は、じぶんの人生をじぶんで選び切り開いてきたようなつもりでいた30代の女が、似た者どうしの男との関わりのなかで、じつはもはやじぶんは舵を手放しているんじゃないか、じぶんの外にある見えざるものに舵を握られているんじゃないかという感覚に気づき、似た者どうしとは言えまぎれもない他者であるこの男とどう向き合っていくかによって突破口を見出そうとする、とある熱帯夜を書いた。随筆である『フルーツXに届かない』は、読書によって経験する著者という名の他者のまぶしさ、じぶんとの相違や、悪気があるのかないのか、真意の読めない他者の言動によって望まないのに強要されるじぶんの過去のフラッシュバック。これらによって生じるこころのモヤ、そしてそのモヤを消さんとしておもい出したいのにおもい出せない過去のある夜、あの場にあったフルーツX。しかしおもい出すために必要なのは紛れもなく、あの場に共に居た他者の記憶だという、逃れようのない他者への回帰を書いた。

天気も他者も、コントロールなどできないし、完全に無縁で生きていくわけにもいかない。当たりまえのことだけど、忘れがちだけど、じぶんの出かたというのはいつだって試されているし、その毎度毎度のことが積み重なってじぶんになっていくので、人生になっていくので、そういった意味ではコントロール次第ともいえる(と、自身の肝に銘じる)。